これが何かの説明&注意書きについては一つ前の記事をご参照ください。
ではでは。
◆◆
彼女が滑らかに湯を注ぐと、間もなく、深い煙のような香ばしさが鼻先をくすぐり始めた。
少しの時間を置いて、今度は湯量を調節しながら細く注ぎ足す。
逆しまの円錐型から焦茶色をした液体が滴り落ちて、それを受け取る硝子容器の中で闇夜の海が生まれていく。
その様子をもっと見たくて、思わず前のめりになってしまって。
視線を上げると、カウンター越しに彼女……フ・ラミンが、くすりと小さく微笑むのが見えた。
少し子供っぽかっただろうか、と照れくささが奥から顔を覗かせてきたが、彼女がそのまま何も言わずに手元の技を見せてくれたから、彼も静かにそれを眺め続けた。
「はい、アゼルさん」
そう言って、差し出されたのは白い陶器の一揃い。
花を模した青の幾何学模様が外側を上品に彩っている。
その中に満たされた焦茶色の海は、その水面から蠱惑的な香りを漂わせていて。
「ありがとう、いただきます」
口を付けて、最初に味わうのはなめらかな苦み。そして後から果実の明るい酸味が広がってくる。
その変化を楽しんでいると、眼前に小さなもう一皿が現れて、その上には豆菓子が盛られていた。
一粒摘んで頬張ると素朴な甘味。
それが再びカップの傾きを誘う、絶妙な組合せで。
至福のひと時。
時間がゆったりと流れていく。
◇
「フ・ラミンさんが淹れてくれるコーヒーって、すごく美味しいですよね」
アゼルが心から思ったことを口にすると、フ・ラミンは「ありがとう、褒めてもらえて嬉しいわ」と、柔らかな笑みを見せてくれた。
彼女の手にも白いカップが握られていて、後から淹れたもう一杯を自身でも味わっている。
これは、石の家でのある日のこと。
スラフボーンからの頼まれ事を済ませたアゼルが戻ってくると、その日は珍しく全員が出払っており。バーカウンターの中のフ・ラミンが一人で留守を預かっていた。
アゼルの帰還に気付いた彼女は「ちょうど良かった、コーヒーでもいかが?」と言って、彼をカウンターの向かいに誘った。
ありがたく頂戴することにして、スツールに腰を預けたアゼルはフ・ラミンが器具の準備をするところからドリップするまでの一部始終を見物していたのだった。
コーヒーの香りと味を楽しみながら、しばらく二人で他愛のない会話をする。
その隙間ができた頃。
「アゼルさん、この間はありがとう」
フ・ラミンの言葉に、先日二人でキャンプ・ドライボーンの聖アダマ・ランダマ教会へと赴いた時のことを指すのだろうと、アゼルはすぐに思い当たった。
「いえ、むしろ立ち会わせてもらって…こちらこそありがとうございました」
ミンフィリアの猫目石を、彼女の父が眠る墓に一緒に納めたこと。
ここレヴナンツトールからドライボーンまでは少し距離がある。護衛という名目ではあったが、彼女達の関係を思えばその大切な場に自分が居させてもらえたことには、むしろこちらが感謝していると。
あの時に見た彼女の凪いだ後ろ姿を思い出しながら、アゼルはそう口にした。
それを受けたフ・ラミンは、多くを語らず微笑みだけを彼に返す。
それからしばらく置いて。
「あの子にも、ここでこうしてコーヒーを淹れてあげて。一緒に飲んだこともあったわ」
懐かしい記憶を愛おしむように、その手の中のものを見つめて続けた。
あの子と、アシリアとここで過ごした時間は多くはなかったけれど。
それでもこうしてこんな風に、一緒にこういうことをしたなと思い出すの。
あの子は星に還ってしまったけれど、こうやって一緒に過ごした日々を思い出せば、いつでもずっとここにいてくれる。
そうして、そっと自分の胸に手を置いて。
「だからアゼルさん、あなたも時々あの子のことを思い出してくれると嬉しいわ」
彼女は言う。
「……ええ、もちろん」
希望の灯火を手にして歩き続けた彼女の姿と、その笑った顔を思い描きながら。
アゼルはフ・ラミンへと頷いた。
二人が次に口を付けたコーヒーは、とても優しい味がした。
◇
「アゼルさんは自分でコーヒーのドリップをしたことはある?」
温かな重さの沈黙を破るように、明るさを乗せた声でフ・ラミンがアゼルへ問うた。
「いや、自分でやったことはないですね。できたら少し格好良いかな、なんて思ったりはしますけど」
だからアゼルもわざと冗談のように返す。
だったら、と。良いことを思いついたとでも言うように胸の前でポンと掌を合わせる彼女。
「今ここでやってみない?」
そんなに難しいことではないわ。横から教えてあげるから。
そうしてアゼルをカウンター内へと招き入れた。
まずはお湯を沸かして、その間に豆を挽いておいて。フィルターはこれを使って。お湯が湧いたらひと呼吸。まずは粉をじっくり蒸らすように。それから細く、少しずつ。
フ・ラミンに教えられるままに手順を進めてアゼルは最初の一杯を淹れる。
手ずから淹れた沸き立つ香りに、密かに胸を踊らせる彼だったが。
「……あれ?」
一口飲んで。
美味しくないわけではないのだが。
先程彼女が淹れてくれたものと比べると、微妙に何かが足りない気がして。
首を傾げながらフ・ラミンの方を見ると、アゼルが淹れたコーヒーの味見をしている。
「初めてにしては上出来よ」
お世辞でもそう言ってくれるのは嬉しいのだが。
「なんかこう…フ・ラミンさんみたいに美味しく淹れるコツって、何かあるんですか」
覚えた違和感の正体を知りたくなって、アゼルは尋ねた。
するとフ・ラミンは、視線を上目に一瞬考える素振りをして。
それから、柔らかな笑みを浮かべて、唄うようにこう言った。
美味しいコーヒーを入れるには、何より時間が大切よ。
◇
彼の手元でコーヒーの香りが生まれる。
細く湯をまわし注ぎながら、アゼルはフ・ラミンから淹れ方の手解きを受けた時のことを思い出していた。
大事なのは分量、温度、そして時間。
それらをきっちり測りながら手順を進めていく。
少しずつ滴り落ちていく琥珀色。
ごく浅煎りの豆を挽いた粉から抽出されるそれをしばし見守ってから、雫が落ちきるまでの間にと、茶請けの菓子を準備しておく。
そして、二つ並んだカップに満たしておいた湯を捨てて。空いたところに琥珀色を注ぐのだった。
「よし、イイ色だ」
ひょんなことから今日は珍しい豆を手に入れることができた。
時間もあることだし、久しぶりにフ・ラミン直伝のドリップ法でコーヒーを淹れてみようか。
思い立って、道具の有無をオジカ・ツンジカに確認したところ「あるよ!」の声。
以前いた研究員のコーヒー党が、ラストスタンドまで行かずとも済むようにと器具一式を持ち込んだらしい。
ナップルームの奥深くから掘り出されたそれをオジカから受け取って、ついでに水場も借りて今に至る。
彼の手には淹れたてのコーヒーが二つ。
意外な趣味だと思われるかな、と口の端に笑みが浮かぶ。
あの時フ・ラミンはこう続けた。
美味しく淹れるコツの「時間」には手順的な意味合いの他に、もう一つ。
それは、コーヒーを楽しむ時間を素敵なものにしたいという想い。
一人の時は、自分のために。
誰かと一緒の時は、その人のことを考えて。
手順通りに淹れるのはもちろんだけど、想う相手がどうしたら喜ぶかを想像してみるの。
苦みのあるのが好き、酸味があるのが好き。
濃いめが好き、華やかなのが好き。
お茶請けはあれが良いか、それともこれが良いか。
そういうことを試行錯誤する時間と、その結果に生まれる時間。
そして、それの繰り返しが。
コーヒーの味を深くしていくのよ。
あれから手隙の時に一人で淹れてみたり、時折石の家でフ・ラミン相手に上達具合を見てもらったり。
彼女の味にはまだまだ及ばないけれど、自分のそれも少しは深みを増しただろうか。
この部屋の先で待つ「彼女」の顔を思い浮かべながら。
そうだといいなと、アゼルは願って扉を開けた。
想いを淹れる・END